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私事ですが、今週末はドラクエ三昧となりました。
まず土曜日はドラクエ夏祭り。
2年ぶりに現地まで行ってきました。
新宿で買い物をしていた途中
「そういえば今日、夏祭りじゃね?」
と、急きょ思い出しての出陣です。
2年前はちゃんと招待券を持参していきました。
会場では、鳥山先生の画コンテなんかが展示されていたし、グッズも買って割と楽しんできましたのを覚えています。
しかし今年は特に目的はありません。ちょっと様子を見にいっただけ。
そんな事情ですから今回は1人で会場に向かいました。
いくらソロプレーヤーでも、こういう場所にぼっちで行くのは結構侘びしいですね~。
僕が会場についたころには、ルイーダカフェの商品はめぼしいものが売り切れており、DQ10のVer5情報なんかも告知が終わっていたので、特に気になるものがありませんでした。
しっかし、夏祭りの会場、狭くなったな・・。このままフェードアウトしないか心配です。
会場では、DQ11Sの販促とドラクエ映画ユア・ストーリーのPVが印象的でしたね。
特に、ユア・ストーリーのPVをずっと見ていると、自分の中の
「ドラクエ映画は鳥山画じゃなきゃヤダ!」
というカタブツ脳が、徐々に軟化していく感覚になりました。
ルドマン、ヘンリー王子、ゲマ・・
幼少期の微かな記憶と当時の純粋で甘やかな冒険心が蘇ってきます。
主人公リュカの声を担当する佐藤健も「感動すぎて立てなくなった」とまでいっている映画ですしね。やっぱり映画、観てみようかな。
そんなイベントサイドの思惑にまんまとひっかかった僕は、翌日に時間が空くとすぐに東京都多摩市にある映画館に駆け込んだのでした。
いや~、映画なんて何年ぶりだろう。
過去を振り返ると、もはやセピア色の記憶しかありません。
実際にホールに入ってみると、客の入りは6~7割程度でした。
いくら都心ではないとはいえ、日曜日の昼にしては少ない気がしますが・・。
あるいは今のご時世、映画館に足を運ぶ人なんてこんなもんなのかしら?
さて、映画の感想について少々。
具体的なネタバレにならない程度にざっくりした印象を書いてみましょう。
一言でいうと、僕のツイートの通りです。
ユア・ストーリー観てきた❗
— western (@westernfield111) 2019年8月4日
前半→フムフム
中盤→おおおぉぉ!!!!
ラスト→????
ツーストライクまでうまく追い込んだのに、トドメの変化球が大暴投。
狙いすぎでしょ。
パクレ警部の悪夢再び。 pic.twitter.com/9Fr4ZvcYZx
つまり、途中まで普通に楽しんでいたのに、最後の展開でズッコケてしまいました。
後方の観客も映画終了後に「なんだ、こりゃ」とつぶやく始末。
最後のオチで物語全体が腰砕けになるこのイメージは、DQ10のパクレ警部の事件簿に重なると思ったのは僕だけでしょうか。
そんなわけでこの映画は、SNS上で結構な頻度でディスられています。
僕も残念ながら、これらのコメントに共感するところが大きい。
もちろん映画のすべてが駄作とは言いませんよ。
むしろ主人公リュカの冒険シーンを随所に見ていくと、かなり秀逸な内容がおおいです。もちろん映画特有のストーリー改変がありますが、「ゲームと違う」といちいち違和感を持たず、別の作品としてみれば、結構感動できます。
特に主人公の花嫁へのプロポーズ・シーンは秀逸です。僕は、このシーンを見るために(今後出るであろう)DVDを買うかもしれない。
僕はもともとビアンカ派ですが、あの演出は泣けましたね。僕の思うイメージにピッタリです。25年ぶりに彼女に惚れ直してしまったw
そんこんなで、映画中盤までは割とよかったんですよ。
それだけにラストが「あんな」だから勿体なく感じます。
あるいは最後の展開は、人によっては現代を捉えた新鮮な問題提起であると、肯定的にとらえたかもしれません。
もちろん僕だって、ラストシーンでいいたいことはわかりますよ。
しかし、僕はこの映画にリアル社会とゲームの関係みたいな社会論は求めていないのです。そういう話は、観客が映画を見た後、個々の内心で考えるべきであって、ファンタジー(とされる)映画の中で実際に問題提起しては野暮だとおもうんですがね。
※後日注:
後日、このようにフィクションの中であえてこれをフィクションであることを明示する手法をメタフィクションと呼ぶことを知りました。
メタフィクションが確立された表現技法の一つであることは理解できましたが、この技法が今回の映画で功奏しているかは別論です。僕はやはり今回の映画は、ファンタジー部分を俯瞰するタイミングを誤っている(もしくは理解するのが難しすぎる)と思っています。
とはいえ、この映画で勉強になったことがあります。
伝えたいことをすべて伝えようと技巧を凝らしすると受け手は興ざめする
僕もブログの真似事なんかをやっているので、一応表現者の立場です。しかも自分が言いたいことがあると「語ってしまう」性格なので、上記のようなことは多分にあるのです。
でも、下手をすると今回の映画のようになることを知りました。表現者としては凝った演出でいいたいことを言えたつもりでも、受け手にとっては不快なフェイントにうつってしまうことがあるんですね。
表現者としては、そうならないように、受け手に合わせて自分の中にある考えを「上手く切り分けて」提供する、あえて全部出さない、という姿勢が必要なのかもしれません。
現在はSNSが台頭して、「思ったことはすべて表現にしなくてはならない」と思っている傾向があります。「あえて表現に出さない」という余裕がなくなっているともいえます。
今回の映画の表現には、そのような現代の表現者の性質みたいなものが表れているのかもしれません。
・・おっと、そんなことを言っている自分が、蛇足的な社会評論をしてしまった。
余計なことが増えないうちに記事を終えます。
それでは、また。